日野川水系の水力発電所
中国電力系小水力
旭発電所は令和4年現在ESSの所有する小水力発電所。
西伯郡伯耆町にあります。
山陰電気によって明治42年に建設された日野川水系最古の水力発電所で、送電開始から既に100年以上が経過しています。
※大正10年とする向きもあり
意外な事に土木遺産として認定されている旧江尾発電所よりも古い歴史を持つ事になるんですね。
そしてなんといっても重要なのが、令和元年に中国電力からESSへ移管した際、最大出力675kWへの改修計画でFITが適用され現在に至っているという点。
つまり、旧来のスペックである最大出力2,000kWを現在の流況にあわせて見直すことで、
そんなわけで今回お話しする内容は、各施設の位置を説明したり、資料を手当たり次第に引用したうえで最終的に…
- 年表をバシッと作成する
- 意見の分かれる送電開始の年代について解釈を行う
- 移転前の建屋はいったいどこにあったのかを推定する
- 小水力との因縁について考察
以上の4つを目標とします。
それでは始めようじゃないか、ぽんきちくん。
もくじ
所在地
いきなり地図ドン!
川下(左上)に向かってすぐ新幡郷発電所の取水堰。
川上(右下)には川平発電所。
そして新川平発電所に至っては導水区間がカブっているというカオスっぷり!
これでは意識して調べない限り〔取水 ⇨ 発電〕の組み合わせなどわかる筈がありません。
ま、大抵どこも解り難いからこんな記事書いてるんですけどね。
旭発電所取水ダム
国道からよく見えて、アンダーパスの隣にあるので覚えやすいと思います。
覚えなくても良いですが。
また、私の知る限り用途変更などされていませんので、発電所同様日野川で最古の水力発電用取水堰堤である筈です。
因みに古い堰、というか古いコンクリート構造物というのはたいてい具が大きい。
※粗骨材が川石だったりする
そういうところも見るぶんには…まぁ楽しいのですが、堰の老朽化というのは治水的には頭の痛い問題なんでしょうね。
取水口や排砂ゲートなど、主なギミックの集中しているこちら側にアプローチするためには、川平発電所へ通じる道の、その更に奥へ向かって進みます。
普通車ではいろいろこすってしまいそうな道幅ですし、落石や倒木などタイミングによっては障害物もあります。
お立ち寄りの際は各自で注意のこと。
沿革と緒元のデータ
まずは、発電所の所在地である旧溝口町の地誌「溝口町誌(1973)」より写真も含め引用します。
明治40年2月に設立された米子町(当時)の山陰電気株式会社(後に広島電気株式会社となり、さらに現在の中国電力となる)は、同42年10月15日、日野川に水力発電を計画し旭村大字荘字牛切口に出力500キロワットの発電所を建設、米子、淀江、安来、口部日野方面に電力を供給した。
これが日野郡に発電所のできた最初である。
その後、消費が多くなり、発電能力が不足してきたので、大正10年5月20日同村の字石畑に出力2,000キロワットの発電所が完成し現在に至っている。
名称 | : | 中国電力株式会社旭発電所 |
所在地 | : | 溝口町荘字石畑 |
最大出力 | : | 2,000kW |
常時出力 | : | 1,000kW |
竣工年月日 | : | 大正10.5.20 |
送電開始 | : | 大正10.5.20 |
経営主体 | : | 中国電力株式会社 |
S45発電量 | : | 18,083kWH |
町誌編さん委員会調べによる |
それでは次、
溝口町制30周年記念誌「溝口町のおいたち(昭和60年)」より一部引用します。
明治40年山陰電気株式会社(後に広島電気株式会社に合併)が米子に設立され、明治42年10月15日、日野川に水力発電を計画し、旭村大字荘字牛切口に出力500kWの発電所を建設。
米子、淀江、口部日野方面に供給しました。
これが日野郡で最初にできた発電所でした。
この工事の竣工にちなんで、工事請負者の西沢万吉が宮原の樂々福神社境内に記念碑を建てました。
碑表には
日野川の水のおこせし電(いかづち)は ひらけゆく世の光りなりけり
遊夢
裏面に
去る明治14年霜月より山陰電気工事に従いて神のみ守りによりことなくその竣工をつげたり。
ゆえにその記念としてこの碑をおさめ奉る。
東京電業社員従七位勲七等遊夢
佐藤寅一
明治42年6月吉日
と記してあります。
その後、電力の消費が多くなり、大正10年5月20日同村大字荘に出力2000kWの発電所を完成しましたが、戦後経済の急速な発展とともに電力の消費が増大し供給不足となり、新しく壮に新川平発電所を…云々
中略
この間、会社も広島電気株式会社から昭和4、5年のころ中国配電株式会社となり昭和26年5月1日現在の中国電力株式会社と改称されました。
電力需要の増加に対応するために日野変電所の計画が…云々
以下略
次、取水堰のある江府町の地誌「江府町史(昭和50)」より。
もういっちょ、「広島電気沿革史(昭和9)」から。
第七章 事業狀態
【旭發電所】
本發電所は、鳥取縣日野郡旭村大字莊小字小林にあり舊山陰電氣に於て明治四十一年(創業當時)最初に建設せし水力發電所にして、四十二年十月竣工せり。
出力四五〇「キロワツト」なりしが、大正九年に至り設備改善を企圖し、舊發電機水車等を撤去し現在の設備に改めたり。
大正十五年八月山陰電氣の合併に依り本社に歸屬したるものにして、其の發電容量は二千「キロワツト」なり。
設備の大要を擧ぐれば左の如し。
使用河川名 | : | 日野川 |
使用水量 | : | 四〇〇〇立方尺 |
有効落差 | : | 八一尺 |
種類 | : | フランシス |
馬力數 | : | 一,四五〇馬力 |
箇數 | : | 二箇 |
製造者名 | : | 日立製作所 |
容量 | : | 一,二五〇K,V,A, |
電壓 | : | 二,二〇〇「ヴオルト」 |
回轉數 | : | 四五〇回轉 |
周波數 | : | 六〇「サイクル」 |
箇數 | : | 二箇 |
製造者名 | : | 日立製作所 |
最後に、
山陰電気は、会社設立に先立って、明治39年7月より水源地調査をおこない、最初、40年1月に俣野川(鳥取県日野郡)の、ついで同年4月に伯太川(島根県能義郡)の水利使用を出願したが、調査の結果、両河川とも不適当なことが判明し、あらためて日野川に着目、40年9月にその流域の鳥取県西伯郡旭村大字荘に発電所を設置することを決定した。
そして、ただちに水利使用を出願し、その許可を受けて、同年12月、発電所建設工事に着手したのである。
この建設工事はかなり難航したもようで、とくに、水路延長756mのうち、約76%の574.5mにおよぶトンネルは「堅き花崗岩質より成り掘鑿甚だ困難を重ね一昼夜の工程僅に5寸(15cm)に充たざることありし、隧道の中間に一ケのシャフトを穿ちて工事に便したれどもトンネル内水は頭上より滴下するのみならず脚下より湧出して工事を妨害し殊に衛生に悪しく健康を害して工夫中脚気病に罹りしもの少なからざりき」(『電気之友』第242号、明42.11)といわれる状態であった。
したがって工期は大幅に遅延し、42年7月にいたって土木工事が、同年10月に電気工事がそれぞれ完了、着工いらい1年10か月を経過して、次の諸設備をもつ旭発電所の竣成をみたのである。
使用河川 | 日野川 | |
発電所位置 | 鳥取県日野郡旭村字荘 | |
水路延長 | 416間(756.4m)、うちトンネル316間(574.5m) | |
使用水量 | 毎秒268.2立方尺(7.64㎥/s) | |
有効落差 | 35尺(10.6m) | |
水車 | 芝浦製作所製セントラルジスチャージタービン400軸馬力1台 | |
発電機 | 芝浦製作所製三相交流6,600V、250kW発電機 |
発生電力は、約17.5km離れた米子変電所に6,600Vの特別高圧で送電され、米子町ならびに西伯郡成実村大字西大谷、福米村大字米原と、島根県能義郡安来町の供給区域に配電されたのである。
営業の開始は明治42年10月16日であった。
もうひとつだけ!
令和の設備更新で、水車とか設備一式を納入したのがイームル工業です。
※イームル工業に弱い
既存の建屋を保存するため、水車のケーシングを新規設計した…的な記事が明電時報のバックナンバーで読めるので気になる人は読んでみるといいよ。
まとめ 1.緒元と年表
それではまとめます。
上記、手当たり次第に引用した出典のうち、町史記載の常時出力1,000kWなど、ぱっと見違和感のあるデータを省き、内容が重複しかつ異なる場合は広島電気と中国電力の記述を優先。
※事業主ですので
更に電力土木技術協会様のデータベース、また中国電力のプレスリリースより補強させていただきつつ、以下緒元ドン!
名称 | (ESS) | ESS旭発電所 |
経営主体 | (ESS) | 株式会社エネルギア・ソリューション・アンド・サービス |
所在地 | (町史) | 溝口町荘字石畑 |
竣工年月日 | (中電) | 明治42.10.16 |
最大出力 | (ESS) | 675kW |
最大使用水量 | (ESS) | 3.55m3/s |
有効落差 | (ESS) | 24.93m |
水車 | (イム) | 横軸フランシス水車 1台 |
取水位 | (協会) | 114.80m |
放水位 | (協会) | 86.16m |
発電形式 | (協会) | 水路式 |
発電方式 | (協会) | 流込み式 |
導水路総延長 | (協会) | 2,339.8m |
ちなみに設備更新(令和)直前の緒元は以下、列記して畳んでおきます。
最大出力 | (社史) | 2,000kW |
常時出力 | (協会) | 120kW |
S45年発電量 | (町史) | 18,083kWh |
最大使用水量 | (中電) | 11.131m3/s |
有効落差 | (中電) | 24.40m |
設置形式 | (協会) | 地上式 |
建屋構造 | (協会) | 二床式 |
水車 | (社史) | フランシス×2 1,450馬力 日立製作所 |
発電機 | (社史) | 1,250kVA 2,200V 450回転 60サイクル 2基 日立製作所 |
最大出力2,000kWに増強
事業主が広島電気に
事業主が中国配電に
事業主が中国電力に
最大出力675kWの
まとめ 2.送電開始の解釈
送電開始の年代について二通りのとらえ方があると上述しました。
明治42年:広島電気、中国電力
大正10年:溝口町史
というのが主な文献の立場です。
牛切口から石畑と、地所が移動していますので町史と同じく大正10年…と言いたいところですが。
なんといっても事業主が明治42年と言っていますので、その社史が一次情報であることは明白。
また、上物(建物)の竣工年月日として考えるなら、これも大正10年でなんの間違いもありません。
しかし他種の発電形式と違い、水力発電所というのは〔取水 ⇨ 導水 ⇨ 発電〕を行う一連のシステムとして捉えるべきだと私は考えますので、
送電開始は明治42年である
とする立場をとります。
まとめ 3.移転前の建屋について
建物がちょっと動いたぐらいでシステム全体が破綻するわけじゃありませんからね。
ちなみにどれぐらい動いたんですか?
所〕ゴニョゴニョ…1,500mぐらい?
ぽ〕おい!(ビシッ)
所〕まぁいいじゃん、そんなことよりさ。
意外な事にどこにもハッキリしたことの書いてない旧建屋が何処にあったのかを考えてみようじゃないか。
参考にするのは「中国地方電気事業史」に書いてあるこの一文。
現在の導水路総延長が2,339.8m、地理院地図でざっと計測してもまぁそれぐらいです。
ぽ〕
所〕だねぇ、笑。
で、現在の旭発電所よりはるか手前で発電に適した場所としてパッと思いつくのが新川平発電所。
しかし旭ダムからここまで1,500m、ここであったとしても距離は倍。
まだまだもっと手前です。
こうやって推理と計測を繰り返すのも面倒くさいので、手っ取り早く距離を測って当たりを付けてしまおう。
ここです。
ここ以外に考えられません。
現地はどうなっているのかというと、何やら水門らしき設備があり、余水を吐いているようにも見えます。
残念ながら立入の出来る場所ではありませんのでこれで精一杯。
まとめ 4.ふたたび小水力として
念のため繰り返しておきますと、
- 水力発電の黎明期、ごく自然な流れとして小規模な発電所があった
- 織田史郎をはじめイームル工業の働きにより爆発的に普及した農協系小水力
- 環境意識の高まりによる法整備で現在普及しつつある再生可能エネルギーとしての小水力
旭発電所は全国に遅れること17年、中国地方の中では10年遅れながらも、当初最大出力250kWの発電所として小ぢんまりと竣工しました。
即ち上記分類の(1.)にあたります。
その後、電力史の流れに沿う形で規模を大きくしながら配電統制の影響下に入るなど紆余曲折。
そして現在、またも小水力へと転身。
これが上記分類(3.)にあたりますので、おもしろい事に異なる性質の小水力を2度体験しているんですな。
スクラップ&ビルドが(比較的)かんたんだけど燃料価格に影響を受けやすい火力発電所と違って、水力発電所ってしぶといですよね。
だよね。
ここで言うと、2kmちょい手前で取水して25mの落差を得るっていうシステムが既に確立しているから、水力発電のアドバンテージがあんまり変わらないんだよ。
つまり最初頑張って投資すれば半永久的に富を生み続けるという、まさに夢のエネルギー!
⇧保守の事を忘れている
以上で旭発電所のご紹介を終わります。
次はここと同様、小水力への減量組である川平発電所をご紹介します。