日野川水系の水力発電所
中国電力系
黒坂発電所は日野川水系の水力発電所で、鳥取県日野郡黒坂にあります。
昭和15年7月、広島電気によって建設され、現在は中国電力が運営しています。
日野川流域からの取水で賄う水力発電所としては、
最大出力:15,000kW
有効落差:184.4m
こちら2つのスペックが文句なしのナンバーワン。
日野往来から2条の水圧鉄管が良く見えるランドマークでもありますので、まさに日野川を代表する水力発電所と言ってよいでしょう。
- 主な取水施設を訪ね歩いて紹介する
- 黒坂発電所を主軸とした年表を作成する
特に発電開始の昭和15年はと言えば日米開戦待ったなしの状況です。
そんな中、日本電力史上五指に入る大事件『日本発送電の設立』がありました。
国を挙げて電力国家統制へのかじ取りが急速に進められる訳ですが、黒坂発電所はその影響をモロに受けた水力発電所でもあります。
それでははじめようじゃないか、ぽんきちくん。
もくじ
1.黒坂発電所の取水施設群
冒頭で最大出力と有効落差がナンバーワンだと書きました。
しかしこれほどの有効落差を得ているからには日野川本流からの取水を行っている筈もありません。
当然その取水経路は複雑を極める事となります。
つまりそれらの探索もすっげー楽しい訳です!
それでは以下オレンジ色のピン📍を左⇨右の順に、
大宮ダム ⇨ 秋原堰堤 ⇨ 中原堰堤 ⇨ 菅沢堰堤 ⇨ 久住堰堤 ⇨ 鵜の池
といった感じで辿っていきたいと思います。
1-1.大宮ダム
日野川水系で、意識して調べない限りどこで発電してるのかさっぱり想像もつかないダムNo.1の大宮ダム。
まぁ川平堰堤も旭堰堤も、名前を伏せれば同じくさっぱりわかりませんが。
ここでいったん集めた水が、総延長9kmちょいの導水路を遥々辿りながら、後述のいろいろな取水施設で少しずつ水量を増し鵜の池へ。
最後に黒坂発電所へダバーッと水を落として発電しています。
貯水池名称 | : | 大宮調整池 |
ダム所有者 | : | 中国電力 |
堤高 | : | 16.768m |
堤頂長 | : | 68.50m |
提体積 | : | 8,000㎥ |
総貯水容量 | : | 495,000㎥ |
土砂吐 | : | ローラゲート×1門 |
洪水吐 | : | クレストにストーニーゲート×2門 |
施工 | : | 奥村組 |
完成 | : | 昭和14年 |
堰堤改築記念碑、続日南町史、電力土木技術協会データベースなどより。
1-2.秋原堰堤
聖滝へ向かう山道の入り口付近にあります。
大宮ダムへ行ったり来たりするとき、必然的に往復することになる阿毘縁菅沢線。
その途中に聖滝の案内看板がありますので、ここだと知っていれば特に迷うという事は無いでしょう。
柵があって、堤体に肉薄出来ない作りになっていますので堰堤についてはこれぐらいにして…。
水路橋のお話をしましょう。
(0゚・∀・)ツヤツヤ ⇦ 水路橋が好き
取水堰があるという事はそこは沢になっています。
沢があるという事は、導水路はサイフォンでも使わない限り勾配を維持したまま、どうにかしてそれを突破する必要があるので…まぁ大抵橋を架けることになります。
という事で、
①~③が阿毘縁菅沢線と並走する枯れ沢を、
④~⑦が秋原川を、
それぞれ跨ぐ水路橋です。
枯れ沢の方は三層の立体交差。
秋原川の方は水路橋の下、天端を歩いて渡る頭首工がアツいですな!
1-3.中原堰堤
国道180号線の脇にあります。
なので、この道を往来する人たちの目に入らない筈はありません。
しかしこれが、はるか遠くにある黒坂発電所の取水施設だと誰が想像するでしょう。
⇧知らなかった
水力施設を俯瞰しながら紐付ける、という今回の調査意図を実によく表した堰堤だと云えます。
- 中原堰堤で堰き止めた水を(⇧)から取水
- 中原川の流量を維持するため(⇦)排砂ゲートから一定量放流
- あくまで余水を発電用として(⇩)手前に導水
- 氾濫時(⇦)の越流提で洪水調節
1-4.菅沢堰堤
国道180号線から黒坂へ抜ける菅沢日野線に入ってほどなく、菅沢川のほとりに姿を現すこぢんまりとした取水施設。
こちらが菅沢堰堤です。
- 堰堤で堰き止めた水が手前(⇩)からきて
- 菅沢川への維持流量を左(⇦)から放流&排砂
- 余水が発電用として導水路へ(⇧)
- 洪水調節用の越流提が左(⇦)
中原堰堤とソックリですね。
ダムとしての要素が収れんした結果自然とこうなるのか…
恐らく日本全国に数えきれないほどあるんでしょうね。
こういうユニット化したような取水施設。
1-5.久住堰堤
日野川水系、数ある取水施設の中でも神秘のベール度No.2!
道が整備されているので到達困難という訳ではありませんが、とにかく場所がわかりにくい。
えっ、じゃNo.1ってどこですか?
くっくっく…
まぁそのうち紹介するさ。
取り敢えず今は久住堰堤だ。
ここはかなり複雑で、なるべく以下に添付する堰堤付帯の平面図と地形図を見比べながら聞いていただくのが望ましい。
というのも3つの流れが交差していて、それぞれの流れに対応した土木構造物が密集しているからです。
天郷川
まずは当然久住堰堤があります。
天郷川から取水しているここ久住堰堤は、冬季は全量取水、春から秋は全量放流とのこと。
0か1かのわりと極端な水利使用方針ですね。
導水路
そして黒坂発電所の導水路が走っています。
いや、いる筈です。
何故歯切れ悪いのかというと…見つからないからです。
黒坂発電所の取水位、すなわち大宮ダム取水口の標高は410.41m。
鵜の池の注水口がだいたい400mちょい。
久住堰堤及び周辺の施設群も400mちょいの高さにあり、かつ下記の渓流と交差しますので、どこかで必ず露出している筈なのですが…ない!
これは何か心理的な見落としがあるに違いない。
名もない渓流とナゾの谷止工
最後に、天郷川に合流する名もない渓流。
こちらは名所久住滝を擁する渓流であり結構な水量があります。
なんなら天郷川より多いかもしれません。
問題はここに設けられた谷止工なのですが…でかい。
ここら一帯の代表的構造物である久住堰堤をはるかに上回る大きさです。
.。oO(沈思黙考)
久住堰堤に管理道をつけるなら単に橋を渡せば良いだけだ。
据え付けてある水門は広島の豊国工業製だな。
発注主が広島電気である黒坂発電所の付帯施設だと考えるのが自然。
てことは…
導水路はこのナゾの谷止工と一体化している!
( ✧Д✧)クワッ!
たぶん。
そして取水もしてるんじゃないでしょうか。
だって機械式のゲートまで作って水を貯める理由なんて他にありませんから。
ただの砂防堰堤なら水穴かスリットで十分なはずです。
2.鵜の池
黒坂発電所、及び下黒坂部落の直近にして遥か山の上。
小さいながらも曲線的で、何とも言えず美しい堤体に名前はありません。
敢えて名付けるとすれば下黒坂ダムってとこでしょうか。
それにしても、よくぞここに水を溜めようと思ったなぁ…
冒頭で述べたとおり、大宮ダムをはじめ5つの取水施設でかき集めた水を、ここ鵜の池にプールします。
もともと灌漑用のため池として使用されていましたので、このうち何割かは維持流量として下黒坂部落へと流下。
そしてようやく残った水(最大10㎥/秒)が黒坂発電所へ。
添付の地理院地図を見ていただきましょう。
ほぼ直下にある黒坂発電所との有効落差は184.4m、まさに天空のため池です。
ちなみに大正元年まで下黒坂部落がこぢんまりと管理、所有していましたが、現在の形になったのは昭和14年、日米開戦待ったなしの状況下においてです。
ちょっと待ってください。
今しれっと27年飛びませんでした?
うん、その間…ていうかその後もゴチャゴチャしているみたいでね。
そのへんも含めて調べてみようじゃないか。
場所はこちら。
黒坂発電所のすぐ手前、つまり最後の調整池です。
それでは以下、鵜の池周辺に物理的に残っている資料を引用して、鵜の池の成り立ちに迫りたいと思います。
まとめは次章でやります。
その昔、隣の村に卯野左内という浪人が住んでいました。
その娘のお藤が友達と一緒に池のほとりでわらび取りをしていたところどうしたことかこの池に落ち溺れ死んでしまいました。
その娘は本当に賢い器量良しだったので、村中の物が泣き惜しみました。
その時母御の申されるには
「私は前の夜、不思議な夢を見た。お藤が白い顔をして私は今、下界に生まれて来ているけれど、元来天上の神としていなくてはならないものだ。といって姿を消した。」
と言うのです。
この話は、池に落ちたとき、まっさおな池の上に雪のような白い顔を上げて、岸に立っている友達に、にっこり笑って沈んでいった最後の姿と似通うものがあるので、とうとうお藤を神様として祭ることになりました。
それ以後、この池を卯野左内にちなんで卯(鵜)の池と呼ぶようになりました。
気の毒なお話ですね。
あくまで伝承ですので真偽の程は定かではありませんけど、とりあえず名前の由来がわかりました。
でも…単にカワウの飛来地だったからじゃ(モゴッ)
そこまでだ!
ふ~、君はもう少し空気というものを読んでくれたまえ。
次、堤体を渡ってすぐのところに鵜の池返還記念碑があります。
ここに彫ってあるのは、人造湖である鵜の池の所有権とそれにまつわる紛争の歴史です。
鵜の池の堰堤をはじめ、大宮ダム、またそれらを結ぶ導水路など様々な関連施設の成立年代と、その経緯を知るために有用な情報が記されていますので、以下に書き起こします。
鵜の池返還記念
一、コノ池ハ我々ノ祖先カラ、古来幾多ノ危険ヲオカシ、年々歳々、堰堤ヲ築造シ、飲用灌漑等ノ多目的ニ使用シ今日マデソノ維持管理ヲシテ来タ
一、大正二年法令ニ依ル部落有財産統一ニヨリ旧黒坂村ニソノ使用慣行ヲ永久ニ認メル条件ノ下ニ寄付シタ
一、大正十一年時ノ山陰電気株式会社ト旧黒坂村長トノ間ニ発電事業ノ契約ガ行ワレタ
一、昭和十五年七月 日本発送電株式会社ニヨツテ発電開始トナツタ
一、昭和二十七年旧黒坂町ヨリ一部池敷(新湛水敷)ガ無償払下ゲトナツタ
右ノ経過ニヨツテ旧池敷ハ合併日野町ニ引継ガレ町有ノママトナツテイタ
昭和四十六年ヨリ部落民ハコノ部落固有ノ財産ノ払下ゲニツイテ町ニ陳情シ数多ノ困難ヲ重ネ昭和五十四年日野町議会ノ払下ゲ決議ヲ得タノデアルガコノ執行ハ容易デハナク 町議会 部落トノ折衝ノ結果十年間ヲ要シ昭和五十六年十二月二十四日町議会ニオイテ政治的解決トナツタ 部落ハ鵜ノ池周辺林野六五三〇九㎡ト現金五〇〇万円ヲ町ヘ寄付スルコトヲ条件トシテ旧池敷一六三(・?)六三六㎡ノ払下ゲヲ受ケルコトトナツタ次第デアルガ部落ハ涙ヲノンデコノ条件ヲ受ケザルヲ得ナカツタノデアツテコノコトヲ子々孫々ニ伝ヘルベク茲ニ記スモノデアル
なんやかんや言って現代文ですので、読むのに苦労はしません。
が、もう少しだけ情報を整理して年代順に並べてみますと…
古来 | : | 下黒坂部落が維持管理をしていた |
大正 2年 | : | 部落有財産統一/入会権整理の達示により旧黒坂村の所有となる 部落に、これまでどおりの使用を認める条件付き |
大正11年 | : | 山陰電気株式会社 ⇔ 村長、間で発電事業の締約 |
昭和15年 | : | 日本発送電株式会社による発電開始 ⇧誤り、後述します |
昭和27年 | : | 旧黒坂町から一部(新ため池部)が(部落に)無償で払い下げられる 旧ため池部は町有のまま |
昭和46年 | : | 旧ため池部の払い下げを町に陳情 |
昭和54年 | : | 町会議による払い下げの議決 未執行 |
昭和56年 | : | 払い下げの執行 昭和56年の払い下げ執行は、【周辺林野65,309㎡】【現金500万円】との交換条件にて行われた次第なのだが… |
うわー…。
ただ事でねーなこれは。
部落有財産統一については他所でも紛争の種になっているようで、研究されている案件がチラホラ見つかりましたよ。
行政単位が変わってゆく節目でこういった事例はいつ誰に起こってもおかしくはないんでしょうが…無念だったでしょうね。
特に、ちょっと便利な社会インフラどころではなく水利権に直結する事案ですので、まかり間違えば田畑の存続にかかわっていたかもしれません。
その後昭和16年10月1日、黒坂発電所及びそれに付帯する施設は広島電気から日本発送電へ出資されています。(中国地方電気事業史)
このときまさに本当の意味での
ここでいったん区切って、次は手当たり次第に資料を引用したうえで沿革のまとめに取り掛かりたいと思います。
ああ因みに鵜の池周辺の山林のどこかに、お藤ちゃんを祀った祠があったそうですね。
なんかの郷土資料にチラッと書いてあるのを見かけたことがありますが、今はどこにあるのかわかりません。
3.沿革
それではまず、大宮村⇔広島電気らによる金銭授受の記録について、続日南町史に記載がありますので引用します。
一金 五百円 廣島電氣株式会社
昭和十三年十月十一日 提出
昭和十三年十月十一日 可決
大宮村議会書綴
言うてもダム建設ですので村中大騒ぎだった筈です。
貰っとけ貰っとけ!
ところで奥村組っていうと、あの日本を代表するゼネコンの奥村組ですよね。
今でこそ日野郡でも土建屋さんと言ったらよりどりみどりですが、例えば昭和26年に竣工した薮津橋などは、橋梁建築の専門家ではなく近所の大工さんが図面を引いた、などといったエピソードも残っているくらいです。
※黒坂の和尚さんから聞いた
広島の大企業からすると微妙だったのかもしれません。
次、日野町誌。
第二章 地勢、地質/地勢/池沼
代表的なものは、町の中央北寄り、下黒坂と下榎の間にある鵜の池である。
かつては下黒坂部落約20ヘクタールの灌漑用水のみに使っていたが、昭和14年広島電気株式会社(現中国電力株式会社)はこれを発電に利用しようとくわだて、印賀川の水を、日南町吉だたらのダムに湛え、隧道を通してこの池に導き、さらに下黒坂方面は50メートルのえん堤によってかこみ、一大貯水池とした。
黒坂発電所の資料によると、日南町地区からの水路延長8,480.42メートル、満水時の高さは海面上405.878メートル、水深約12メートル、有効容量1,822.700立方メートル、192メートルの落差によって、根妻地内で出力15,000キロワットの発電を行っている。
これは県下最大規模のものである。
なお現在鵜の池は、本町の最有力な観光資源として開発が予定されている。
黒坂発電所
広島電気株式会社(現中国電力株式会社)は昭和11年秋から着工して、昭和15年7月黒坂発電所を完成し、15,000キロワットの送電を開始した。
昭和15年7月の完成、送電開始が広島電気によるものだと概ね読み取ることができます。
発電開始が日本発送電によるものであったと明記していた、前述『鵜の池返還記念碑』の内容とは食い違っていますが真相はどうだったんでしょう。
最終攻略本である中国地方電気事業史を引用して、白黒つけたいと思います。
同時に1支店・4出張所が設置され、そのひとつとして広島出張所も開設された。
管轄区域は広島・山口・島根・鳥取(日野・西伯両郡)の4県にまたがり、岡山県はとりあえず大阪支店に属した。
電力設備としては火力発電所総出力15万6,450kW・送電線総亘長4万2,376㎞・変電所総出力15万9,000kVAの能力をもってスタートし、これらはすべて各電気会社からの出資によるものであった。
その概要は以下のとおりである。
1-3-2『日本発送電広島出張所の開設』
まず、昭和16年10月1日、広島電気から黒坂(最大出力15,000kW)、熊見(同11,200kW)、打梨(同14,500kW)、土居(同8,000kW)、王泊(同2,200kW)、下山(同10,500kW)、加計(同15,000kW)、間野平(同9,000kW)の8水力発電所、総最大出力8万5,400kWの出資を受けた。
1-3-6-2-1『戦時における日発中国支店の動向』
以上のように日本発送電(広島出張所)は、発足した14年4月1日の時点ではそもそも水力発電所を所有していませんでした。
そして、各電気会社が所有しているまだまだ美味しそうなところ、黒坂発電所をはじめとした8水力発電所を接収したのが昭和16年10月1日。
つまり発電を開始した昭和15年7月の時点において黒坂発電所は、広島電気が所有していた事になります。
昭和13年~14年にかけて順次可決されていった『電力国家統制法案』の各法案ですが、
日本発送電株式会社の発足=全電源の接収
となったわけでは無いようですね。
実際、昭和16年8月施行の配電統制令に基づいて設立された中国配電も、発足時には表3-11のような電源を保有していました。
それでは上記、堰堤改築記念碑の年表に、日野町誌、そして廣島電氣沿革史等から知ることのできる各社の関係する出来事を重ねて、もういちど整理してみましょう。
中国電力設立
旧ため池部は旧黒坂町有のまま
それにしても、広島電気が黒坂発電所の開発に着手したのが昭和11年。
日発の発足がその3年後ですので、施主の広島電気としては血の気が引くような思いだったでしょうね。
案の定、完成の翌年には取り上げられてしまいます。
アーメン。
( ˘ω˘ )スヤァ…zZ
…ハッ!
お疲れさまでした。
それでお藤ちゃんの祠はどこにあったんですか?
⇧ 殆ど聞いてなかった
黒坂発電所
常時出力: 2,700kW
有効落差:184.40m
取水位 :410.41m
放水位 :210.14m
運転開始:昭和15年7月
以上の諸元は、電力土木技術協会様より許可を頂き、2014.09.01時点での入力を元にそのデータベースを引用しています。
鵜の池のところで燃え尽きましたので、諸元と写真を貼って今回はおしまいにいたします。
次回は日野川第一発電所でもやりましょうか。